先日、同じ学科に属する法律学の教授と話をした。最近はhow toを意識した文献が多く、原点となる理論や、これが生み出された背景が書かれているものがなくなっている。寂しい気持ちになるというのが彼の意見であった。確かに、書店に並んでいる文献を見渡すと、彼の主張が決して間違いではないことに気付く。
身近な例として、1元配置実験の講義で平方和の分解について話をする場面を考えよう。この内容を受講生は非常に嫌う。これに対して、手順立てた計算方法を中心に話し、演習問題で理解度を確認すると、理解できたと喜ばれる。いわゆるhow toが受け入れられるのである。しかし、手順だけでは分散分析表がどのような理屈で作られるのかの理解には至らない。最終的には自身で再度勉強をしなければならなくなる。断片的なhow toだけでは、応用が利かなくなるのである。
また、筆者が研究しているQFDについても、品質表を作ることがQFDを実施することと誤解している人が少なくないことに驚く。どのような二元表を作成していけばよいかを考えるのが非常に難しいという声をよく聞くが、QFDという概念がどのような時代背景において、なぜ必要であったのかという原点を理解すれば、このような事態にはならないのであろう。これもhow toを重んじて来た結果ではないかと考える。
我々が何か新しい研究を進めていく際には、必ずその基礎となる研究が存在する。何もないところから新しいものを作り出すのは非常に困難である。つまり、原点を顧みることと、前進することは表裏一体であって、どちらも欠かすことのできない要素なのである。時代や環境の変化に対応するために、何事も前進することが求められているが、しっかりと原点を理解することが重要である。最近痛感するのは、私のような若輩者でも理論の原点を理解できるようなリファレンスがしっかりと残されているとあり難い。貴重な文献が余りにも少なくなってきている。
近年では、企業も教育を熱心に行うように変わりつつある。how toと原点回帰のバランスを保ちつつ、物事の本質を理解しなければ前進はあり得ないと自分に言い聞かせている。提言というには程遠い提言になってしまったことをお許しいただきたい。