文部科学省「大学間連携共同教育推進事業」CITI Japan プロジェクトで開発されたeラーニング教材は、JSPSやJSTの競争的資金を受けるときにはその履修を課す研究倫理の標準教材に指定されている。この教材の管理は、2016年4月1日に設立された一般財団法人公正研究推進協会(APRIN) に現在引き継がれている。
APRINには、4つの分科会(医生命科学系分科会、理工学系分科会、人文社会学系分科会、中等教育における研究倫理の教材作成分科会)がある。筆者の属する理工学系分科会では、技術者向けの倫理教材として、技術倫理〜技術者の観点から〜、技術開発におけるリスクマネジメント、情報技術に関する倫理の3つの教材を制作し、既に会員向けに提供を始めている。また、今年度中に技術開発における技術データの取り扱いに関する倫理、技術と社会という2つの新たな教材を完成させる予定である。
以上の教材に加えて、現在APRINの理工学系分科会が新たに制作に取り組んでいるのが事例集教材の開発である。
現在、大学で研究者倫理、技術者倫理の単位を必修化する動きが進んでいる。しかしながら、それらの科目を専門的に教えられる人材の数は限られている。実際には、ファカルティの中から誰かが指名され、短い準備期間で科目を担当せざるをえないケースも少なくない。そうした現状を考えると、倫理科目の講義を担当する教員に役立つ教材の整備が急務である。
もちろん、そうした標準教材はこれまでもなかったわけではない。しかし、それらは米国の教材の翻訳であることが多く、特に事例については身近とはいえないものが多数含まれていた。そこで、技術者倫理科目のディスカッション材料として使える事例を、日本を舞台としたものを中心にまとめて提供しようというのが、新たに事例集教材作成を企画した意図である。
これまでも、日本の倫理案件を集めた事例集は、日本技術士会発行の技術者倫理事例集など、先行するものはいくつかある。にもかかわらず、新たに事例集作成を企画した理由は、技術者倫理の講義で学生にディスカッションをさせるとき、学生に議論を深めてもらうには、扱う個々の事例についてかなり詳細な情報が必要だからである。筆者自身、授業のディスカッションにおいて、「この事例において、この点の事実関係はどうだったのか?」という質問をしばしば受けてきた。
これまでの事例集は、事例の数を多く集めることを意図したものが多く、個々の事例について事実関係を詳細に調べたものはあまりない。そこで、新たに作成する事例集では、講義の話題提供用に、テーマを10に絞り、それぞれについて1回分の講義のディスカッションに堪えうる詳細な情報を記述した事例集を作成することを目指している。上述の理工学系分科会の5つの教材と、10の事例とあわせると、大学で標準的な15コマの講義の教科書として運用することも可能である。
今回作成する事例集では、テーマ選択の特徴として、東日本大震災で功を奏した、東北電力女川原発をはじめとする津波対策の成功事例や、当時建設中だった東京スカイツリーの地震対策など、Good Practiceによる成功事例を多く入れようとしている点が挙げられる。
これまでの事例集はBad Practiceを中心としたものが多かった。しかし、昨今、倫理教育は予防倫理から志向倫理に移行しなければならないとの潮流がある。本教材でもその考えに沿った事例の選択を行っている。
歴史的に、啓蒙主義以降、実存主義やポストモダン哲学の登場により、社会が意味や目的を喪失している中で、志向倫理が何を志向するのかを定めるのが難しい時代になっている。その一方で、昨年出版されたJordan Peterson著”12 Rules for Life”が世界で300万部以上を売り上げたことから分かるように、意味の回復を求めようとする人々が多くいるという現実もある。今後、技術者倫理を語る上でも、こうした動向を踏まえた議論が必要になってくるだろう。